祖国軽視の国賊

 国体という言葉がある。簡単に言えば国のあり方、どういう国なのかということである。

 日本は天皇陛下を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」として憲法に規定しているが、それ以前から名実はともかくとして、日本の最高権力者の上座として崇め奉ってきた。それは「良い」、「悪い」ではなく、日本国はずっとそういう国の形でやってきたという歴史と伝統である。
 「天皇」という存在が絶対君主として、或いは権威の偶像として存立させようというのなら話は違ってくるが、儀礼的にこれまでの国のあり方との整合性の中で今日の立憲君主制国家としての日本が確立されているのだから、敢えてこれを変える必要はないのではないだろうか?
 とかく、天皇制についての議論は極左と極右の対決のようになるが、私はそのどちらの立場にも賛同できない。極端な話、共産主義化するか民族主義化するかとかそういう次元を超えて、天皇制とは日本という国のアイデンティティなのであって、これを廃止するという事は1000年を超える日本国の歴史をゼロリセットすることと同義であると考える。

 天皇陛下がいつも何をしているのか。もちろん私も詳細に全てを知っているわけではないが、「天皇制がどーのこーの」と声高な人間たちはなお一層その辺の事に無知が多い。
 天皇陛下は日本国の平和と繁栄の為に“祀り”を取り行う事を“仕事”とされている。一般公開はされないが、宮内庁のウェブサイトに日単位で日程が掲載されている。「~の儀」や「~祭」というのがそれに当たる。また、国家元首として国賓や大使に(あくまで儀礼的なものだが)会われたりしている。
 考えてみてほしい、総理大臣が国家元首であったならば、カンのようなまぐれで総理大臣になって思いつきで発言をし、ろくに国際儀礼もたしなんでいないようなゴミが他国の国賓をもてなす場面。それは日本の面汚し以外の何になるか?

 繰り返しになるが、天皇陛下が(象徴としてであれ)最高権力者の上位にいるというのが日本という国の形であり、天皇陛下が平和と繁栄の為の祭を行うことを千年続けてきたのが歴史であり、そういうものが“日本”、すなわち祖国なのである。

 思いつきや、無知や、自己形成ができていない人間の無礼や独善でこれらをないがしろにする行為は、それを祖国軽視の国賊と呼ぶべきである。


平山議員、陛下に携帯カメラ向ける
無所属で民主党会派に所属する平山誠参院議員が、13日の開会式に臨席される天皇陛下を衆参両院議員が整列して迎えた際、陛下を携帯電話のカメラで撮影していたことが同日、分かった。自民党参院議員ら複数の議員が目撃した。

小6教科書で陛下“呼び捨て” 皇室軽視強まる
天皇陛下に敬称を付けず“呼び捨て”の記述が文部科学省の教科書検定をパスし、今年4月から小学校6年生の教科書として供給・使用されることが10日わかった。巻末の用語の索引に「天皇」を盛り込まなかった教科書もあった。天皇、皇后両陛下はじめ「皇室軽視」の傾向はこれまでも教科書でみられたが、学習指導要領では「天皇への理解と敬愛の念を深める」よう求めている。専門家からは「指導要領の趣旨が教科書に十分浸透していない」との批判の声が上がる。

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