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独立運動について

2014年12月の任期満了に伴う沖縄県知事選挙が近づいてきたが、ここに来て 沖縄独立 という話題がニュースを賑わせている。その急先鋒はなんといっても沖縄県知事選への出馬を表明している大城浩だろう。 かりゆしクラブ の傀儡という見方も出ているが、この候補の主張はある意味すごい。 1年以内の琉球国独立を目指す 米軍撤退後に中・韓・台の軍隊を駐留させる (参考: 琉球朝日放送 ) 米軍の撤退と琉球の独立を目指す姿勢は100歩譲って理解できないこともないが、その代替として中韓の軍隊を駐留させるとは、もはやこれは独立ではなく中華帝国の属国に立ち戻りますという外患誘致以外のなにものでもない。(台湾は馬英九政権になってから中国にすり寄っているので列挙したのか?) 奇しくも、ユーラシア大陸を隔てた西の果てのイギリスでは、スコットランドの独立の是非を問う住民投票が行われている。こちらは歴史的経緯が沖縄より若干複雑な部分もあるので一概に言えないが、アレックス・サモンド行政府首相(スコットランドの首相)の当初の主張は北海油田を背景に、より経済的な独自性を確立したいというものであったように記憶している。しかも独立と言いながら外交や軍事、通貨等をどうするのかについての具体的な青写真はよくわからない。何となくその辺は引き続き「連合王国」に依存するということであれば、そもそもそんなものは独立でもなんでもない。 今日の世界で独立運動に類するものとしては、東トルキスタン共和国、チベット、イスラム国、南スーダンと列挙に暇が無い。しかし、これらと日本やイギリスのそれとは明らかにある種の大きな隔たりがある。その最大の隔たりは「なぜ独立をするのか」という根本的な目標が異なっている点にある。 例えば東トルキスタンやチベット、イスラム国もそうだが大雑把に言えば彼らの目標は「民族自決権の獲得」にある。つまり自らの文化や財産が守られた幸せな生活が保証され(幸福追求権)、心の拠り所であるコーランや仏典に描かれた精神世界を自己実現し(思想及び良心の自由)、それによるいかなる自己表現をも決して侵されることのない(表現の自由)社会を作りたい。それが彼らの独立を目指す根底の目標であり、それを自らのものとするために血を流して戦っている。 ここでふと沖縄やスコットランドの独立運動とはなんだろうと考え