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5月, 2011の投稿を表示しています

技術者に憧れた日1

 学生の頃は、技術者になりたいとは思っていなかった。いつの頃からIT系の技術者に憧れたのか、思い起こせばそれはある映画を見た時からだった。その映画というのは、 マトリックス 。映画の中で主人公のネオが黒背景の画面にコマンドを入力して、コンピュータを操作している姿がとてもカッコよく思えた。「あ、アレやってみたいな」そう思ったのが、初めてコンピュータに興味を持った瞬間だった。  その話を友人にしたところ、「黒画面にコマンド入力って、Unix系OSとかそんな感じだよ」と答えが帰ってきた。なるほど、Unixってヤツかと、自宅に戻り23時を待ってInternetで検索をしてみた。(その頃はテレホタイムにダイアルアップでインターネットに繋ぐのが主流で…まぁ、昔の話だ)  それから何をどう調べてかは忘れたが、Linuxというのが書店に売ってるという情報を入手したので、翌日近所の書店に行ってみた。たしかに「Linuxコーナー」があっていろいろおいてはあった。Vine Linux、Debian GNU/Linux、kondara Linux等々。ん?Linuxそのものが欲しいのだが…Linuxって名称のOSが存在していると思っていたから悩んでしまった。「まぁいいや、Redhatってイカした名前のをとりあえず買ってみよう」と、CD-ROMが付属した本を購入してみた。  ここから、長いLinuxとの付き合いが始まった。(つづく)

君が代について考えてみた

君が代 について考えてみた。 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔の生すまで 古今和歌集に収められたこの歌は、国歌として相応しいのかという議論がある。(もしかしたら、一部の人間が騒いでいるだけかもしれないが) この意味を 反対派 は下記のように解釈している。 治世の君(つまり天皇の)が永遠に続きますように この問題について考えてみる。ポイントは以下2点。 この歌詞の本来の意味はどうなのか? この歌詞が国歌としてふさわしくないものなのか? まず、歌詞の本来の意味についてだが、議論の的になるのはやはり「君」が指すのが誰なのか。 一般にはこれは前述のとおり「治世の君」と解釈すべきなのだろうか?これについては、はっきり言って議論自体が不毛な気がする。 なぜならば、この歌は「読み人知らず」、つまり誰が読んだものか判明していないからだ。 古今和歌集の中で「君」という言葉がすべて天皇を指しているならば事は簡単だが、結局のところ「君」は「キミ」でしかない。収録されている他の歌において君が指しているものの中には明らかに天皇を指していないものも含まれている。 つまり、「君」が誰を指しているのかは厳密に言えば作者に聞いてみない限り知りうる事はできないし、作者は当然のことながらすでに故人である。 しかしながら、仮にこの君が天皇を指していたとしても、じゃあ世の中の歌はすべて作者が意図した通りに解釈しなければならないのか? 君が何か伝えようと にぎり返したそに手は ぼくの心のやらかい場所を 今でもまだしめつける (SMAP - 夜空ノムコウ) スガシカオが作詞したSMAPの名曲「夜空ノムコウ」の一節だが、この「君」はもしかしたらスガシカオが誰をイメージして作ったのかもしれない。 じゃあ、この歌を「誰かさん」をイメージしながらみんなが聞いているだろうか?おそらくそんなことはないはずだ。 受け取る人一人ひとりがそれぞれの中で「君」と呼びたい人をイメージしながら聞いていることだろう。 歌とはそういうものなんじゃないだろうか?つまり、作者がどういう意図・意味で作っていようと、それを聞いたり口ずさむ人が好きに解釈すればよい。むしろそれこそが芸術の本質ではないだろうか。 それならば、君が代も例えば下記のような解釈をしても良いはずである。 私の大切に思うあなたが、この先もずっとずっと生きていて

Androidがクソな件

「そんなことはない。みんなスマートフォンは素晴らしいって言ってるじゃないか。きっと慣れればすごく便利なはずだ」 そう、思い続けて2ヶ月が経ちました。もうこれだけ使い込んだんだから、素直な感想を言う時かもしれない。 「あえて言おう、スマートフォンはクソであると」 あり得ないです。ホント、こんなの素晴らしいと絶賛している人はマゾですか? 何がクソかという点を挙げておく。 電話として使いものにならない UIの使えなさは異常 Windows9xバリにひとつのアプリのバグでシステムが落ちる まず、電話としての致命的な欠陥。それは、重たいアプリ(処理)のせいで、着信を受けられない点だ。 着信していてもバックグラウンドで動いている処理のせいで、受話ボタンが利かない。発信・受話ボタンは物理的なものにして、最優先で割り込みがかかるようにしなければ、電話としては致命的ではありませんか?>メーカーさん 次にUIの異常な使えなさ。そもそも、タッチパネルはミスしやすいです。パスワードとか入力してると、まぁかなりの確率でミスします。ミスしすぎてCAPCHAとか出てくると、もぉ発狂しそうになる。 まぁ文字入力はやっぱりqwertyキーボードには勝てません。フィーチャーフォンでも不満はあるので、ある程度は致し方無いとして、なによりいただけないのは画面をスクロールする際に間違ってアンカーを押しちゃうってケース。 ブラウザの反応速度が遅いから、画面をスクロールしたつもりが、アンカーを押しちゃってて、いきなり画面が切り替わる。慌ててバックボタンを押すと、2回押しちゃっていたらしく前の前の画面に飛ばされる。 もぉ、ねぇ、処理が重くてリアルタイムに反応できないんだったら、その間に発生したイベントは破棄しなさいよ。 そして、最も致命的なのはひとつのアプリがメモリを使い切ると、システムごと再起動が走ること。Windows9xですか? これはおそらくKernelとかそういうレベルの問題ではなく、単純にOSの実装の問題だと思う。大体、ガベージコレクションが走る周期が遅くないか?つーか、ブラウザがJavaScriptでフリーズして、それに引きずられてOSごと落ちんなよ!! 以上、Android端末での経験なのでもしかしたら、iOSは多少ましなのかもしれないが。 なにより画一的に全メーカーがiPhoneのマネするんじゃ

Dr.HOUSEの印象に残ったシーン

Dr.HOUSEという海外ドラマで、主人公のハウスが医師を目指すきっかけを話すシーンのセリフ。 「私が14歳の時、父が日本に配属された。私は友達とロッククライミングへ行った。彼は落下して傷を負い、私が病院へ連れて行った。 病院に入ると、ロビーで清掃員とすれ違った。友達は感染症だったけれど、医者は分かってい なかった。すると医者はさっきの清掃員を連れてきた。実は彼も医者で、そしてBuraku(部落)だった。 部落とは日本のアンタッチャブルの一つで、彼 らの先祖は屠殺業や墓堀人をしていた。彼は自分が社会に受け入れられていないと知っていたけど、溶け込もうとも着飾ろうともしていなかった。普段は彼に見 向きもしない病院のスタッフ達が、この時は彼に助けを求めた。皆が彼に従った。彼が正しいからだ。 他のことは重要じゃない。正しければ人は従う。」 Dr. House 53話(Season3 7 Son of Coma Guy) 部落というものが美化されているような気もするし、ネットで検索すると部落団体のよくない話もチラホラ散見されますが。 とはいえ、ドラマはあくまでフィクションなのでそういう寒い話は置いておいて、このシーンはとても印象に残った。Burakuってのはあくまで象徴的な表現ととらえると、要はどんな(たとえ蔑まれるような)立場の人間であっても、 「正しければ人は従う」 って言葉にすべてが集約されていると思う。 正しい事を目指ささなければ、それは誠実とは言えない。現実問題として正しければ何やってもいいってわけじゃないだろうが、劇中のハウスは「他のことはどうでもいい。正しい事をする」という生き方を貫くからこそ、見ているものに感動を与えるんだろうと感じる。