君が代について考えてみた

君が代について考えてみた。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔の生すまで

古今和歌集に収められたこの歌は、国歌として相応しいのかという議論がある。(もしかしたら、一部の人間が騒いでいるだけかもしれないが)
この意味を反対派は下記のように解釈している。

治世の君(つまり天皇の)が永遠に続きますように

この問題について考えてみる。ポイントは以下2点。
  1. この歌詞の本来の意味はどうなのか?
  2. この歌詞が国歌としてふさわしくないものなのか?
まず、歌詞の本来の意味についてだが、議論の的になるのはやはり「君」が指すのが誰なのか。
一般にはこれは前述のとおり「治世の君」と解釈すべきなのだろうか?これについては、はっきり言って議論自体が不毛な気がする。
なぜならば、この歌は「読み人知らず」、つまり誰が読んだものか判明していないからだ。
古今和歌集の中で「君」という言葉がすべて天皇を指しているならば事は簡単だが、結局のところ「君」は「キミ」でしかない。収録されている他の歌において君が指しているものの中には明らかに天皇を指していないものも含まれている。

つまり、「君」が誰を指しているのかは厳密に言えば作者に聞いてみない限り知りうる事はできないし、作者は当然のことながらすでに故人である。

しかしながら、仮にこの君が天皇を指していたとしても、じゃあ世の中の歌はすべて作者が意図した通りに解釈しなければならないのか?

君が何か伝えようと にぎり返したそに手は
ぼくの心のやらかい場所を 今でもまだしめつける
(SMAP - 夜空ノムコウ)

スガシカオが作詞したSMAPの名曲「夜空ノムコウ」の一節だが、この「君」はもしかしたらスガシカオが誰をイメージして作ったのかもしれない。
じゃあ、この歌を「誰かさん」をイメージしながらみんなが聞いているだろうか?おそらくそんなことはないはずだ。
受け取る人一人ひとりがそれぞれの中で「君」と呼びたい人をイメージしながら聞いていることだろう。

歌とはそういうものなんじゃないだろうか?つまり、作者がどういう意図・意味で作っていようと、それを聞いたり口ずさむ人が好きに解釈すればよい。むしろそれこそが芸術の本質ではないだろうか。

それならば、君が代も例えば下記のような解釈をしても良いはずである。

私の大切に思うあなたが、この先もずっとずっと生きていてくれるように想っています

君が代という歌に限ってそう解釈してはいけないということはない。
結局のところ、どういうふうに受け取りどういうふうに歌うのかが大切なことなのだ。

もう一つ君が代について考えてみたことがある。
この歌の君を好きに解釈したとしても、絶対にこの君に該当しない人間がひとりだけいる。
それは「私」である。

そう、この歌は絶対に自分自身のことは含んでいない。あくまで相手のことを想って歌っていることだけは紛れもない事実だ。
世界の国歌の中で、私のことは歌わずに相手のことを歌っているものがあるだろうか?

FIFAワールドカップという世界の舞台で、君が代が歌われるシーンがあるが、あの場面を思い起こしてほしい。
私たちは君が代を歌いながら、相手のことを歌っているのである。

あなたたちの国がこれからもずっと続いていきますように

そう解釈してもいいはずである。
これこそ、鳩山由紀夫も大好きな「友愛」の精神そのものだ。私たちは国歌として、友愛の歌を頂いている。
これって、ものすごく素敵なことではないだろうか?

平和と友好を願う日本国にとって、これほど相応しい国歌は他にはないだろう。


最後に、国旗国歌法に反対している人たちの中で、(特に公立学校の)教員について触れたい。
君が代が国歌として嫌だと考えるのは個人の自由だ。それはわかる。
しかし、センセーというのは自分が学生の頃にこう言っていた。

「校則が気に入らないと言うが、悪法も法なり」

自分たちが悪法も法なりということを守らないのならば、学生たちにはこう言わねば整合性が取れないだろう。

「校則は無視して、金髪に短ランで投稿したいなら、それも個人の自由として認められる」

ダブルスタンダードを使い分ける教員など、いくら偉そうなことを言っていようと外道である。

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